いつまで田舎にいるの?

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あなたにとっての晴れ女は誰ですか? 映画『天気の子』を観た感想

天気の子



 

 

新海誠監督の作品は嫌いだけど好き、好きだけど嫌い、やっぱり好きな作品だ。

 

秒速5センチメートル→言の葉の庭→君の名は。→天気の子 という順番で新海誠監督の作品を観続けてきたぼくにとって、『天気の子』も名作だった。

 

 

 

 

田舎に住む人間にとって、永遠の憧れである街『東京』

 

君の名は。と同様に『天気の子』も東京がメインの舞台だった。
ただし、君の名は。は東京と田舎を行き来した映画だったが、『天気の子』は9割くらい東京がメインの舞台として描かれていた。

 

新海誠監督は長野県の小海町の出身なのだが、人口は4,676人。

2019年度の上智大学の合格者数が4,765人なので、ほぼ小海町の人口と一緒である。

 

つまり、とても小さな町、イコール田舎の出身だったはずで。

参考までにだが、自分の地元の〇〇町の人口が8,000人程度だったので、自分の地元よりいわゆる「田舎」だったと思うと、不自由さはぼくの少年時代よりもきっとあったはず。

 

 

『天気の子』では主人公の男の子が「田舎の町」出身だった。

「田舎の町」が彼にとってとても退屈な場所だったので、東京に出てきたらしい。

 

東京に出てきた詳しい理由は映画の中では描写されていなかったが、詳しく描写しないことによって「俺も田舎が嫌で東京に出てきたんだよな~」と見ている人たちの間に共感を生もうとしたのではないだろうか。

 

ぼくも新海誠監督の住んでいる町よりは栄えている町に住んでいたが、コンビニまで徒歩30分、通学はチャリで20分、近くにイオンやパルコ、マルイなんてない町だったため、中高生の頃はとても苦労した記憶がある。

 

折角できた彼女をデートに連れて行こうとしたけれど、電車とバスを乗り継いでデートをする他になく、丸一日かかって映画を観て夕飯を食べて帰ってくるという、かなり心理的な負担、経済的な負担が大きいデートだったことは今でもはっきりと覚えている。

 

 

そう、恐らく新海誠監督も、田舎に対して「不便さ」を感じていたのではないだろうか…ということが『天気の子』からも感じとることができた。

 

 

そして、田舎に対して不便さを感じる人間というのは、恐らく田舎にいる人の半数にも満たない。体感だが、1割もいないんじゃないだろうか。

 

田舎に住んでいる人たちは、田舎に順応する。

例えば、都会であればスーパーまで徒歩2、3分だが、田舎は車で10~20分かかったりする。これは、都会の人から見たら考えられないほど不便であり、受け入れられない環境かもしれないが、田舎の人はこの不便さに順応してしまうのだ。

 

それは、田舎以外の世界を知らないし、知ろうとも思わないからだ。

都会の便利さを知ってしまったところで、田舎にいる人たちは田舎から出ていくすべをもたないのである。

 

 

君の名は。に続き、『天気の子』でも、主人公は田舎の生まれで、東京に対して並々ならぬ憧れを持っていて、なんとかして東京に出てきた…!!というストーリーには共感をする他なかった。

 

東京に出ていったら何かがあるような気がして、それが何かは分からないけれど、田舎にはないものがきっとあって。

 

そんな期待を胸に秘め、ぼくたち田舎者は東京への進学・就職を希望するのだ。

もう二度と不便な思いをしたくないから。

 

 

 

『天気の子』は、何もかもに全力だった思春期の頃を思い出させてくれた

思春期の頃は何もかもに全力を注いでいた。

勉強、部活、恋愛、遊び、…etc。

時間が空いている日があれば、とにかく予定を入れて、何もかもに全力を注いでいた。

 

しかし、大人になるにつれて、「全力さ」を失っていっているような気がする。

 

「これくらいできれば及第点かな。」

「論理的に考えると、AよりBの方が成功しやすい。」

 

大人になるにつれて、個人の感情より、成功しやすい、効率の良い選択ばかりをとるようになった。

 

例えば、恋愛だって、効率を重視して感情は無視をしている。

 

思春期の頃は、一人の人をちゃんと好きになり、恋愛感情を抱き、告白だの性交だのをしていた。そして、付き合えば喧嘩もするし、記念日を一緒に祝ったりと、今でこそ「しょーもない」と思うようなことにもいちいち全力だった。

 

しかし、今はどうだろうか?

 

大人になり、色々経験をするうちに、大して人のことを好きにならなくても性交できるようになり、そうなってくると恋愛感情なんてものはとっくの昔に雲散霧消し、手元に残っているのは性欲だけになってしまったように感じる。

 

また、いちいち誰かと全力でぶつかるなんてこともなくなった。

思春期の恋愛は、自分が他の女の子と飲みに行ったりすれば彼女にブチ切れられ、ライブを一緒に見に行っただけでもブチ切れられ、そうやってある意味お互い恋愛に対して真剣に向き合う日々を過ごすことができていた。

 

一方で、今となってはどうだろうか。

 

誰かと少しでも真剣に向き合おうとしただろうか。

 

最後に真剣に向き合ったのは、今から4年前のちょうど今くらいの季節。

凄く好きな人がいた。

 

何回か性交して、その後丸ビルにディナーに連れて行って、一緒にワインボトルを空けて、意図的に終電をなくして、家まで持ち帰った上で告白して付き合った記憶がある。

 

彼女はとてもキレイで身長も高く、貧乳なのが玉に瑕…っていうかそれはそれでアリ!という感じだったのだけれど、付き合って1ヵ月で俺の転勤が発動し、なくなく地方に転勤している間に別の男を作られ、結果的にこっぴどく振られてしまったのである。

 

彼女から言われた「私に非モテコミットしすぎw」というセリフは、今でもぼくの旨の中で生き続けている。

 

 

彼女と付き合っていたときは素晴らしく恋愛が楽しかった。

毎日のように昼休みの間に電話をしたり、自分の方が仕事が終わるのが早ければ彼女に料理を作ったり、彼女が倒れた時に彼女の父親の代わりに病院に引き取りに行ったりとかしたのだが、人生の中で最もムゴい振られ方をしてしまったのだ。

 

 

それ以来、恋愛には結果と効率を求めるようになり、自分にとって恋愛は楽しくないものになってしまった。

 

 

対して『天気の子』の陽菜(ヒロイン、ようやく名前が出てきた笑)と帆高(主人公)は恋愛に対して並々ならぬ熱量を注いでおり、その熱量に圧倒され、涙してしまった。

 

「あ、ああー俺にもこんな頃があったな…」と。

 

 

ここに新海誠監督の映画が、「嫌いだけど好き、好きだけど嫌い、やっぱり好き」な理由が隠されている。

 

大人になって打算的に恋愛をするようになって、どうやって相手に自分のことを好きにさせるか?ということを考えてばかりなぼくには、新海誠監督の作品は眩しすぎるのだ。

 

そりゃ俺だって、陽菜のように可愛くてしっかりしてる女の子を彼女にしたいけど、似たような子に「好きです!付き合ってください!!」と言った所で相手にされないのが現実である。

 

だからこそ、恋愛に効率や結果を求め、打算的に行動してしまうのだが、本来恋愛とは「誰かを好きになって、好きになった相手もたまたま自分のことを好きになってくれて、結果的に結ばれる」という形が理想なのではないだろうか?

 

 

 

あなたにとっての晴れ女は誰ですか?

『天気の子』を観た感想に正しいも間違いもないが、ヒロインの陽菜を「とてつもない力を持った主人公」として、ワンピースのルフィやドラゴンボールの孫悟空、BLEACHの黒崎一護と同列で語ってしまうのは少々無理があるような気がする。

 

映画で使用されている”晴れ女”とは、暗い気持ちの自分を”晴れやか”な気分にさせてくれるような女性のことを言うのではないだろうか。

 

確かに、「この子と話したい、この子と一緒にいると元気になれる!」という子が思春期を振り返ると確かにいた。大人になった今では晴れ女もいなければ、天気の子もいないけれど。

 

『天気の子』を通じて、自分の気分を晴れやかにしてくれるような女の子と結ばれたいと思ったのと同時に、ナンパだ恋愛工学だと言っている自分が少し恥ずかしくなった。

 

 

 

今年の夏、ぼくはぼくだけの「晴れ女」を見つける旅に出ます。探さないでください。

 

あ、まてよ、俺…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バツイチだった(涙)

 

雨女じゃん…。

 

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